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「詩人の夢の継承事業」 −さいたま市政令市記念市民事業− → 詳細 立原道造と別所沼畔のヒアシンスハウス 詩人立原道造は、一九三七(昭和十二)年冬から翌年春にかけて、当時、葦がおい繁り静寂をきわめた別所沼の畔に、自らのために小さな週末住宅を建てようとしていた。 立原は、詩誌『四季』を主な舞台として、青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳いあげ、わずか二十四歳八か月でその短い生涯を閉じたが、一方では、将来を嘱望された建築家でもあった。東京大学建築学科の卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」で構想した壮大な都市計画や、小住宅設計などに示された現代にも通じる立原の設計思想は、今日もなお多くの人々に語り継がれている。 昭和初期、浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、「鎌倉文士に浦和画家」とも呼ばれ、一種の芸術家村の様相をみせていたという。当時この地には、立原の年長の友人で詩人の神保光太郎、画家の須田剋太、里見明正らが住んでいた。また、立原と親交の深かった東大建築学科の同級生小場晴夫は旧制浦和高校の出身でもあった。これらのことから、《芸術家コロニイ》を構想した立原は、自ら住まう週末住宅の敷地として別所沼畔を選んだのであろう。 立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した。さらに、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていた。しかし立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかった。 立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから六十六年の時が過ぎた二〇〇三(平成十五)年、別所沼公園が、さいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、二〇〇四(平成十六)年十一月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。 二〇〇四年十一月 ヒアシンスハウスをつくる会
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僕は、窓がひとつ欲しい。 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。 僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……
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●立原道造書簡から関連記述抜粋
一九三七年一二月一七日 小場晴夫宛[東大建築学科同級生] ……僕は 疲れてゐる。何者にも。いつの間にか、僕は自分の晩年に就て 考へてゐる僕を見出す、どんな陽気な問ひからはじまつても、僕は やがて 自分の晩年をロマンのなかに悲しく描きはじめてしまふ。浦和に行つて沼のほとりに、ちひさい部屋をつくる夢、長崎に行つて 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考へてゐる かなしいかげりのなかで花ひらくのだ。
一九三八年二月一二日 神保光太郎宛[詩人・『四季』同人] たうとう この手紙の最后で 僕の夢想をいちばんあとにまでかくしておかうとしたあなたに お知らせいたしませう 同封しましたのが その計画の製図されたものです 旗は 深沢紅子さんがデザインしてくれることになつてゐて それは僕にもどんなのが出来るのかわかりません ヒアシンス・ハウス・(風信子荘)といふ名前です(土地のことを具体的に早く定めなくてはならないのですがいつお会ひ出来るでせう)[中略] 2. 同封の図面は二つありますが 地主さんにお会ひになりましたら ちよつとお伝へおきねがひたく どちらでもいいから見せておいて下さい僕も行つて 早く土地を正式に借り受けたいと存じます 百坪などいらないのですが あまりすくなくては貸してもらへないとおもひますので 百坪と申します 出来たら 五十坪ぐらゐでいいとおもふのですが 五十坪のなかへ 四坪半の小家?を建ててもまだ広すぎる位です 3. 里見さん[註・里見明正]にも はなしておいて下さい 僕は 近いうち 日曜日に もつと正確な 設計図を持つて 浦和に行きます そのときに 僕がはなすことがありすぎると混乱してしまうだらうとおもひますゆゑ 予備知識を画家[註・須田剋太]たちに注ぎこんでおいていただければ幸せです(実行家のエスプリでせう!)
一九三八年二月中旬頃 深沢紅子宛[画家] 浦和に建てるヒアシンス・ハウスの図面を同封しました。/旗のデザインをして下さいましたら、たいへんにうれしく存じます。
一九三八年三月下旬頃 高尾亮一宛[一高の先輩] ……それから、「ヒアシンス・ハウス」といふ週末住宅をかんがへてゐます。これは、浦和の市外に建てるつもりで土地などもう交渉してゐて、これはきつとこの秋あたりには出来てゐるでせう。五坪ばかりの独身者の住居です。これも冬のあひだしよつちゆうかんがへ、おそらく五十通りぐらゐの案をつくつてはすててしまひました。今やうやくひとつの案におちついてゐます。
一九三八年四月上旬頃 深沢紅子宛[画家] ヒアシンス・ハウスのこと、その家のとなりに住んでゐる絵描きさん[註・里見明正]が六日から写生旅行に行くので、そのアトリエを借りて家の出来上らない先に浦和に移らうとおもひます。
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・ヒアシンスハウスに関する論文
「ヒアシンスハウスをつくる会」は、「詩人の夢の継承事業(さいたま市政令市記念市民事業)」として、立原道造が構想したヒアシンスハウスを、別所沼公園内に建設するための活動を続けてまいりましたが、2004年11月6日、ヒアシンスハウスは 無事竣工となりましたため、この会は記念小冊子を発行(2005年3月)し、活動を終了いたしました。
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