立原道造・夢の継承 別所沼のヒアシンスハウス 永峰富一(建築家 ヒアシンスハウスをつくる会代表)
沼には蘆が生い茂り、大きな白蛇が住んでいたという、昭和 13 年。そして今、立原道造が夢みたヒアシンスハウスが別所沼湖畔に立ち上がった。多くの人の御協力によって夢は継承され、多くの人の心に詩人は語りかけている。 地域を拠点とする建築家山中知彦、さいたま文芸家協会の北原立木、坂本哲男と共にヒアシンスハウスについて、地域の固有の文化について語り合ったのは、つい昨日のように思われる。誰ともなく「立原の夢を継承しよう」と立原道造記念館を訪ね、宮本則子、津村泰範と出会ったのは 2003 年 1 月、雪の降る日だった。そして春には「ヒアシンスハウスをつくる会」が有志によって発足し、別所沼公園の一隅を市から借地することができた。詩人のかなえられなかった夢を 65 年の歳月を経て実現する企ては私たちを魅了し、ものつくり大学の太田邦夫の統括の下、実施設計に熱中した。そして全国 850 余の方の募金によってヒアシンスハウスは市民の自主運営の文化拠点として公園内に建つ。どの方の心のうちにも立原の詩と共に過ぎ去った日々が想い起こされているようだった。立原と東京帝国大学建築学科の教室を共にした吉武泰水も「立原さんの住宅の図面は本当にすごかった」と語り、不肖の学生であった私に「早く造れよ、僕も見に行くから」と励ましてくださったのは亡くなる数週間前、忘れられない御自宅での一時であった。
若き建築家・立原道造 堀辰雄、三好達治らと共に、『四季』の同人として青春の抒情をソネットにのせて歌い、 24 歳で早逝した立原道造が 、 東京帝国大学建築学科を卒業し将来を嘱望された若き建築家であったことはあまり知られていない。同級に 小 場晴夫、下級に生田勉、丹下健三、吉武泰水が在籍し、そうした級友と共に製図に取り組み三年連続して辰野賞を受ける腕前であった。『四季』に詩を発表しながら課題をこなす自分を「ぼくの半身は詩を考へ、もうひとつの半身は建築を夢見る」と書いていたという( 1971 ユリイカ所収「立原道造の建築」生田勉)。死の一年前に自らの週末住宅として詩人の神保光太郎の勧めによって別所沼湖畔に夢見た建築がヒアシンスハウス(風信子荘)だ。卒業設計<浅間山麓に位する藝術家コロニィの建築群>の一部の実現を期した設計といわれている。 たった五坪の小住宅だが、ヒアシンスハウスという美しい言葉と共に、ていねいにペンで描かれたスケッチは私たちの心を打つ。そのヒアシンス・風信子という冠は、アポロンが戯れに投げた円盤に倒れた少年ヒュアキントスが血汐の中から変成して咲いた花と伝えられ、立原はその神話に魅せられて彼の詩集を風信子叢書とし、また彼が毎夏滞在した信州追分から送った美しい手紙を追分村風信と名づけている。“風”は立原を表象するキーワードのひとつといえる。吉武泰水が「建築は立原さんのレーべンそのものだった」と語ったように、自身を表象するヒアシンス・風信子という冠をこの建築に与え、湖畔の風に翻る旗を建てる。病床で「五月のそよ風をゼリーにして持ってきて下さい」と頼んだ立原は彼のレーべンを風にのせて送るかのようだ。 立原は卒業論文『方法論』で「住み心地良さ」と「住み良さ」との二つの建築体験を区別して「住み心地良さ」は「住み良さ」を深層で支える生命的本質に根ざした気分情感であり、建築の本質はそのような根源的な建築体験にある、と主張している。建築の体験はその場所と深く結びついている。立原の抒情詩が信州追分村と切り離すことができないように、ヒアシンスハウスは蘆が生い茂り、多くの画家が住んでいたという別所沼と結びつき、それらのエピソードは統合され、記憶されて固有の場所性を形成している。私たち建築家の情熱は、ヒアシンスハウスの夢を継承することにより記憶された場所性を回復し、<住み心地の良い>まちを形成することでもあった。
モダニズムの光 スケッチをもとに議論が重ねられ、昭和 14 年の新建築に掲載された案、生田家所蔵の案、神保家所蔵の案、小場宛のハガキを中心に建物が検討された。新建築の案は玄関が東の妻入りであり、他の三案は南面からの平入であって大きく異なり、平入の後者は玄関によってたくみに小空間を分節し、熟考の跡がうかがわれる。その生田家案が 12 年 12 月頃、神保家案が 13 年 2 月であり、立原は神保家案を「地主さんに見せてください」と依頼もしている。仕上げと色彩も指定され、詳細も練られているので神保家案が最終案であろうと判断された。またハガキの案は神保家案と同時期に描かれた同じ内容であり、平面、率面、断面、窓の詳細が正確なスケールでまとめられ、小さな画面にもかかわらず立原の熱意と能力が感じられる。 最終案には三つの窓が描かれ、東南コーナーの大きく開かれた窓、北側の横に連続した窓、ベッドの脇の小さな窓、それぞれが異なった形式によって平面に対応していることに気がつく。平面は入口で東西二つに分節され、東側は広がりのある空間でテーブルが置かれ大きな光りあふれる窓、西側は閉ざされた空間でベッドがあり小さな窓がある。敷地が本来構想された沼の東岸でなく西岸になったので、この小さな窓が沼に開いていないのは残念だ。北側の窓は分節された二つの空間をつなぐように水平に連続して配置されている。東南コーナーの窓は隅を欠き込むというコンクリート構造によって可能となった近代建築の手法による窓であり、北側の窓も横長の水平連続窓で同じく近代建築の手法だ。当時の教室にはコルビュジェに夢中であった丹下健三もいて、優秀な学生であった立原が近代建築の手法に習熟していたことは想像される。最近見つかった図書館の図面にコルビュジェばりの樹木を描いている立原であり、ヒアシンスハウスは巧みに配置された窓によって、光の空間を構成する近代木造住宅といえよう。そしてこの小さな一室空間は南仏カップ・マルタンにあるコルビュジェの「休暇小屋」を思わせる。立原がヒアシンスハウスを構想したのは 1938 年、「休暇小屋」が実現したのは 1956 年、時をおいて二人が夢見た建築であった。 このコーナーの窓がしたたかなディテールを持っていることにも注目される。ガラス戸は柱間にではなく雨戸と共に壁の外に引き込まれて納り、ガラス戸は矩に出会って出隅を形成する。しかもそのコーナーの雨戸はメカニカルに戸車で吊られている。そのために敷居は一本溝で納り、計算されたディテールであった。このディテールを立原は得意そうにハガキに描き込んでいるが、抒情詩人立原のメカニカルな技術への嗜好には興味がひかれる。 したがって窓辺にはガラス戸から離れて独立柱が一本残って立つ。窓を開け放つと出隅に柱が一本、能舞台か残月床のような設いとなり、庭屋一如の空間、伝統的な空間構成の手法である。ヒアシンスハウスは伝統とモダニズムに通低したデザインによって語りかけているといえよう。 さらにコーナーの雨戸には十字架が描かれ、室内パースの椅子にも十字架が描かれていることが目につく。翩翻と翻る旗にも十字架がイメージされていたという。十字架といえば立原道造記念館には背板に十字架が刳りぬかれた椅子があり、また追分で少女から贈られた水晶の十字架も保存されている。その水晶の十字架をモチーフとした作品『鮎の歌』では、「別れははなはだかなしかった」とルネッサンス風の村での少女との別離のメルヘンが語られる。 『鮎の歌』が創作されたのは昭和 12 年 1 月、卒業設計を構想していた時期であり、<ぼくの半身は詩を考へ、もうひとつの半身は建築を夢見る>と書いたという立原だから、同時に創作された『鮎の歌』を卒業設計に重ねることは自然なことであり、『鮎の歌』の水晶の十字架を卒業設計の一部と言われるヒアシンスハウスの十字架に重ねる想像も許されるだろう。すでに体の不安を訴えていた立原は、この十字架によって別離の物語を示唆し、少年の血汐から咲いた花ヒアシンスの冠をこの建築に与えて、復活と再生を、新たな旅立ちを告げているのだろうか。十字架を透過する光は悲しく、旗はその悲しみを送るかのように風に翻る。
ユーゲントシュティールの影 若い建築家であれば誰でもがそうであるように立原は卒業設計を実現することに熱中した。その卒業設計は立原の北欧への憧れが強く感じられる作品であり、北ドイツの芸術家コロニー、ヴォルプスヴェーデ(ハンブルグの近郊)との関連が指摘されている。立原の建築の一方の側面として見すごせない。ヴォルプスヴェーデは世紀末に各地に花ひらいたユーゲントシュティール運動の中核的な場所であり、都市中心のアカデミーサロンから分離し、民衆共同体の綜合芸術への接近を指向する芸術家コロニーであった。立原が親しんだ詩人リルケは数度にわたって滞在し、「ヴォルプスヴェーデ日記」にその美しい日々を描写している。このコロニーの画家フォーゲラーは明治末に「白樺」によって日本に紹介され、立原は「フォーゲラーに捧げて」としてソネットを歌い、卒業設計と『鮎の歌』を構想していた昭和 12 年 1 月には「僕は 今 ヴォルプスヴェデの画人 フォゲラアのことを おもっています 僕のまだ知ることのすくない この人に マリア・リルケが持ったのとかわらないふかい愛を」( 1937.1.19 神保光太郎宛書簡)と書いている。卒業設計はフォーゲラーに触発されているといえよう。 室内に絵画、工芸などの諸芸術が総合する全体芸術の成立をめざしたのはこれら世紀末芸術家たちであることはよく知られているが、フォーゲラーもスプーン、ナイフなどの食器をデザインし、椅子、食卓など家具を弟と共同して工房で製作したという。立原も室内を懸命にスケッチし、パースには書棚に本を並べ、窓に花柄のカーテンを描き、リキュールの瓶を描く。椅子とテーブルをデザインし、机の上にはスチールの曲線のロウソク立てが置かれている。まさに彼が卒業論文で主張しているように、気分情感にもとづいた根源的な建築体験を室内に表現しようとしているようだ。この室内に向ける彼の視線からは、ヒアシンスハウスにも北ドイツの芸術家コロニー、ヴォルプスヴェーデの画人フォーゲラーへの憧憬を、ユーゲントシュティールの影を感じることができるだろう。 なお卒業設計を建築家オルプリッヒが参加したダルムシュタットに関連させる見解( 1971 ユリイカ所収「立原道造の建築」生田勉)もあるが、ダルムシュタットは「最後のドイツ大公」と呼ばれたヘッセン大公の願望した計画であり、いくぶんか権威的な趣きもあり、以上のエピソードを考慮すると立原にはヴォルプスヴェーデがふさわしく思われる。 このように、ヒアシンスハウスの窓に見られるコルビュジェばりの近代建築の手法と北ドイツ世紀末芸術家フォーゲラ?に寄せる立原の憧憬をヒアシンスハウスの空間に重ねると、時代に多感なしかし当時の機能主義から距離をおき、<住みよさ>よりも<住み心地よさ>を主張して、光と影によって建築の根源的な情感を表現しようとした建築家の姿が浮かび上がってくる。それは現在の建築計画学、環境心理学の系譜に位置付けることができるだろう。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に坐つてうつらうつらと睡つてゐる。夕ぐれが来るまで、一日、なにもしないで。 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ…… 『鉛筆・ネクタイ・窓』
窓を透して心を歌う詩人の建築が目に浮ぶ。立原道造は不在だが多くの人が別所沼を訪れてくれることを願っている。 (敬称略)
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